結論:
『子どもを育てるには充実した「育ちの環境」を提供すべで、それを確保できる状態になければ、子どもを増やそうなどという気持ちには到底なれな。』という以前からの思いがあったが、これは早計な間違いであった。
大切なのは、生まれて来た子どもが「生まれてきて良かった」と感じられることだが、それは、「生まれ持つ特性」をより多く発揮することで得られるものだ。
つまり、多少悪い「育ちの環境」であっても、その子が「生まれ持つ特性」をより多く発揮できるようであれば、その子はおそらく幸せになれる。「生まれてきて良かった」としみじみと感じることが出来る日が、いつか来ると思うのである。
この視点に立てば、自分の「育ちの環境」の悪さを嘆き、その人生を呪うような人が居ても、「そうではないよ」と伝えてあげることが出来ると思う。
第三者であっても、いま関わろうとする人が「生まれてきて良かった」と感じるために力になることが出来るのである。
その方法は、その人が「生まれ持つ特性」に意識が行くようしてあげることであり、
また、そうした状況になれるためにどうしたら良いかを一緒に考えることだ。
結論に至るまでの考察:
私にもう一人子どもがいて、それが娘だったらと考えてみた。そうしたら、今私は、本業以外でアルバイトをして、否応なく無理を自分に強いることになっただろう。
まあ、それなりに自分も頑張るだろうが、それでも、生活の貧しさで生まれたその子は大変な思いをする。結果的には、その子は自分の生い立ちを恨む事になるだろう。
逆の発想
貧しく、辛い思いが続く過酷な環境で育った人であっても、いつか「ああ、生まれてきて良かった」と思うような人はいるのだろうか。
いや、これは確実に居る。
要因分析
人の思考を左右する要因
・育ちの環境
・生まれ持つ特性
「生まれ持つ特性」についての考察
私の最新の知見では、この要因は否定できないと思う。
例えば、野球や卓球、レスリングなどで、親の意向でそうした世界へなかば強制的に目を向けられ、それにより世界的に注目されるような人も居るが、そうした人であっても、もし親からのそうしたかかわりが無かったら、つまり、自らの選択の繰り返しで向かう世界というものも考えられるのであって、それはまったく違う世界にもなり得ると思う。
この自らの選択で向かう世界というのは明らかに存在するのだ。そうした方向性は、生まれ持つ特性と考えることが出来るだろう。
また、例えば、3~4歳くらいの子どもが、誰に教えられるでもなく、明らかに特定のある分野に興味を惹かれるということがある。
こうしたものも、生まれ持つ特性の一つと言えよう。
「生まれてきて良かった」の意義
私は最初、この気持ちは、結果論として最終的に持てることが大切であると考えた。
しかし、それは間違いであることが、この後に示す考察で分かった。
この気持ちの意義は、この気持ちを「どれだけ確信して持てたか」ということに重点が置かれるべきと思う。
以下、考察の内容である。
この気持ちは、これを意識している時に、多くの人は、充実感や幸福感を感じていると思われる。
死の直前でもこうした気持ちであったなら、その人は、最終的には幸福な人生であったということになる。この「最終的には」というのはかなり重い。
逆の視点を考えてみる。青年期や壮年期(つまり死の直前でない)に、この気持ちで日々過ごしていたが、最終的には、過去にあったそうした気持ちをほぼ全て失った。つまり、その人の死の直前は、ある種の喪失感を伴うものであった。
一見、この逆の視点は、とても暗いイメージではあるが、過去に得た光の時期に焦点を当てれば、それ程ひどいものでもないとわかる。
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